本屋ガール。

 2003年の4月。
 僕はS街の書店にアルバイトとして入社した。
 時給は安かったけれど、書店のアルバイトをずっとしたかった自分には場所も勤務時間もとても好都合だったし、配属されたフロアの人たちもいい人ばかりで、その頃人付き合いに対して微妙に苦手意識を持っていた自分には楽だった。勤務に入る前、そのフロアのリーダーは「イケメンが入る」と他の面子に言いふらしたらしく、初勤務の僕を見た時に皆が複雑な面持ちで目を白黒させていたのを覚えている。


 アルバイトを始めて数日が経った。恐らく3回目か4回目の勤務だったと思う。
 僕がいつものようにレジに入ると、そこには見慣れない一人の女の子がいた。


 あぁそうだ。他のバイトさんが言っていた。


 『一人お姫様みたいに可愛い子がいるのよ。』


 背は低くて、150とちょっとあるくらいだった。僕と30センチぐらいの差がある。目は二重で大きくは無いけれどはっきりとしている。髪の毛は軽く茶色に染められていて、でもそれが少しも下品ではなかった。細い腕、透き通るような声、そしてよく笑う、とても明るい子。


 ピッピ。


 彼女はそう呼ばれていた。この書店に入ってまだ一ヶ月しか経っていないらしい。
 歳は僕の一つ下。本来バイトなら先輩と後輩の関係であるはずの僕らは、大して気兼ねすることも無くすぐに打ち解けることができた。
 彼女は帰国子女だった。どこで暮らしていたかは書かないけれど、ともかくそういう類の子だった。英語を自然に話して外国人とも積極的にコミュニケーションをとっていく。このフロアには洋書のコーナーがあるので、外国人からも頻繁に問い合わせが相次いでいたが、ピッピはその問い合わせをものともせず、すごく愛想の良い笑顔で取り次いでいた。

 僕らは同じコーナーの担当になった。それからというもの、急速に打ち解けていった。彼女がいわゆる「いじられキャラ」で、僕は突っ込みを入れる、そんなスタンスがお互いの中に生まれていた。その頃の僕は人を笑わせる事から遠ざかっていたので、このポジションは僕にとってすごくナチュラルで居られた。


 僕はピッピのことが少しずつ気になっていった。
 でも彼女には彼氏がいた。同じ書店で知り合った、なるほどこれが本当のイケメンだ、と言う様な、格好の良い男の子だった。
 でも僕は、少しだけ頑張ってみようと思った。追い詰めるようなことはしない。近づき過ぎも遠ざかり過ぎもしない。


 でも距離を埋めていこう。


 僕は彼女と仕事を続けていった。でも本当に少しづつ距離を縮めた。僕らは本当に仲良くなって、レジの中でも僕ら二人は「いつも一緒にいるね」と囁かれるくらい、本当に本当に仲良くなっていった。彼女とバイトの勤務日もお互い見せ合って一緒にして、途中まで一緒に帰って。


 ちょっとした転機があった。


 「あたし最近ちょっと痩せたんだよねー。」
 「そうなの?」

 僕はその瞬間、思ってもなかったことをした。

 彼女の手をパッと掴んで、そして自分が何をしたかに気づき、すぐに腕を握って、

 「痩せてないよ、ちょうど良いと思うよ。」

 と言ったのだけれど、内心ドキドキしていた。
 触れられなかったものに触れた。
 僕は本当に好きなものには触れることができない。見つめることができない。許されてやっと触れたり、見つめることができる。以前の彼女にも僕は「冷たい感じがする」と言われたが、僕は極度に照れるとどうしていいか分からなくなる。


 ピッピの手は柔らかく、すごく小さかった。



 手のひらを合わせて、大きさを比べたことはあったけれど。
 僕の手に、一瞬だけ納まった彼女の手はとても小さく、その事が僕を切なくさせた。




 僕らは少しの間黙り、そしてまた、いつものようにおしゃべりをしながら仕事をした。




 僕らがあまりにも仲良くしていたので、とうとうピッピの彼氏が二人の勤務しているフロアまで監視しに来るようになった。


 僕は内心、「勝った」と思った。
彼女のこと信用していないんだな、取られると思ってるんだな、って。外見的には勝っているかもしれないけど相性はうちらのほうがいいかも知れないぜ?もっと焦れよ。仕事の時間は6時間だ。一日の約3分の1を共にしているんだぜ。焦れ、焦れ。
 少しだけ黒い僕が顔を出すけれど、彼女との距離は本当に少しづつ縮めていった。




 宣戦布告っぽいことをした。


 ロッカーに二人で向かう。
 着替えを済ませて、外に出て、彼女の彼氏が居る前で。




 僕は彼女の頭をそっと撫でて、「気をつけて帰れよ」と言った。




 彼氏と僕との距離は、後で気づいたけれど30センチくらいしかなかった。




 本当に、本当に上手くいっていた。
 怖いくらいに僕らの仲は穏やかで、彼氏がいても僕と必ずロッカーに行って、一緒に出て、別れて帰る。




 そんなことが続いたある時。
 彼女の事をいつも待つ彼氏が、姿を現さない日が続いた。そしてそれに比例するように、ピッピの目は泣きはらしていたり、隈が出来ていった。



 仕事が終わってロッカーからいつものように出た時、そこにいつも彼女を待っているはずの彼氏の姿はやっぱり無かった。いつもは目の敵にしていた彼氏だったが、こう何日も姿を見ないと、あるはずのものが無い様な感覚に囚われて、同時にそれが彼女にどんな影響を及ぼしているのか、それを想うと辛くなった。

 彼女は言った。
 「ねぇSinちゃん、あたしこれから自分の大学まで歩いていくんだ。」
 「一人で?」


 「うん。




  ひとりで。」




 彼女の言葉、そして声はいつもよりもほんの少しだけ冷たく、でも寂しさや辛さが入り混じっている、言葉に出来ないくらい透き通るようなものだった。




 「Sinちゃんはどうするの?」
 すっと僕の懐の近くまで歩み寄る。




 沈黙。
 沈黙。
 沈黙。




 もしここで俺がほんの少しだけ勇気を出して、自分が鈍くないと思い込めば、僕は彼女と二人で居られたのだろう。


 でも僕は、それが怖かった。




 近づいたらダメなんだ。
 近づいたら、この二人のナチュラルな関係は続かなくなる。
 そう、思った。




 「僕は帰るよ。」


 彼女はすっと目を伏せ、「分かった。じゃあね。」と言って、交差点の奥に吸い込まれていった。
 その後姿がとても淋しそうで、彼女の小さな体には少しだけ大き目のコートが、何か無理に彼女を包み込んでいる感じがした。それでも僕は、彼女を見つめているだけだった。




 翌日から彼女と僕の仲は同じだけれど違っていた。仲がいいけれどそっけない。壁が出来ていた。彼女はあの時何を求めていたのか。色々な考えが浮かぶけれど、もう分からない。




 一歩の勇気を。






 ひとかけらの勇気を。






 あの日僕が持っていたなら、きっと変わっていっただろう。






 僕は不真面目なことをよく日記に書いているし、だから疑われても仕方ないかもしれないけれど、それでも、好きになった人は、まっすぐに見つめていく。それがすごく不器用で、何人かの人を悲しませてきたけれど、全身全霊で人に尽くしていきたい。


 好きは色々な含みを持っているコトバだと書いた。




 じゃあ愛するってなんなんだろう、って僕は思った。ていうかここ1ヶ月ぐらい悩んでいた。好きって含みがあるの文章を書いているときもずっとずっと考えていた。




 で、ふっと気づいた。


 愛するとはこれこれこういうものなんだよ、なんてものは無い。




 でもね、




 自分が気になる相手がいて、その人に何かしたい、その人の喜ぶ顔が見たい、その人と共に過ごしていたい。
 そう自分が思える事って、一種の愛情なんだなって。


 そこであれこれ考えないんだ。シンプルなんだ。
 寂しさを紛らわせているんだ、ただなんとなくいるとか、関係ないよ。
 自分がそうしたい、ならばそうすればいいじゃないか。
 そして相手が喜んで、その微笑む顔を見て自分も嬉しい気持ちになる。そして心が温まっていく。
 エゴだとか偽善だとか言わないし思わない。


 ただ、


 喜ぶ顔が見たいんだ。




 笑顔が積み重なっていけば、きっと幸せになれる。
 僕はそう信じている。

 僕の恩師が、こんな話をしてくれました。
 『人はナルシストであるべきだ。
自分が好きで好きでたまらない。それはすごくいいことだ。
ただ、大事なのは、それがどんな時でもそう思えるか、なんだ。
人生では失敗や挫折も沢山あるけれど、
そこで、きちんと自分を信じていくことができるか?
自分の容姿を見て可愛いと思うナルシストではなく、
自分の可能性をどこまでも信じぬくことができる、
そういう意味でのナルシストになっていきなさい。
そしてそれが出来る人は他人にも優しくなれる。
相手の悪いところを見ても、必ず変わっていくはずだ、そう信じられるようになる。
今の世の中は悪い人も沢山居るけれど、やっぱり人は人の中で生きていくしかない。
だから人を信じられないというのは非常に悲しいし淋しいことなんだ。
だからこそ、まずは自分を信じることから始めていこう。』