夏のかげり

暑い、あつい、とうだうだしているあいだに8月になって、野外フェスにも出かけて帰ってきたら僕の夏はすぎた感じがした。世間は夏をもてはやしているけれど、東京に住みつづけている限り、夏のありがたみはたいして感じられない。エアコンの効かせられた室内でパソコンとにらめっこして、おとずれる休日を待ち、気付いたら秋がそっと近づいている。
 
年齢を重ねれば重ねていくほど、自分の立ち位置に気がめいりそうになる。まわりの人がどんどん型になじみ込んでいってるのを感じるたびに、こんなので良かったんだっけ…とぼーっと考えてしまう。
 
仕事をしていても被災地のことが気になったり、原爆が落とされた土地のことをぼんやりと心配していたりする。心配してもどうとなることではないのだけれど、目の前でたまっている仕事に取り組むよりも、がれきのひとつでも砕いて持ち運んでどかしたり、戦渦に巻込まれた話を聴いてうなずく方が、きっと人を快適にできる気がする、少なくともそういう実感は持てる。
 
パソコンは単純明快だ。数式を入れて変数を与えてあげれば答えを出してくれる。けれど、人と人とのつながりはそうじゃない。「ヒト」という変数は瞬間瞬間に変わる。きげんが良かったり、そうかと思えば悪くなったり。だから、人が好きなのだった。変わっていくものに向き合うことが楽しくて仕方がなかった。欲をだして人とつながりつづけた日々だって、本能的な欲求の裏には、人が好きという気持ちがありつづけたからだった。

野外フェス、カエラを見に行こうとして歩いていたその横に、彼女がいた。いつも一緒にいる、小さな女の子と一緒に。6万分の1にめぐり会えた奇跡を、馬鹿みたいだけど信じるよ。